一日の仕事を終えて、ざぶんと風呂に入るのは至福の時間だという人がいる。どんなに暑い夏の日も、シャワーで汗を流すだけではなんだかしっくりこない、という意見も多い。季節を問わず温泉を紹介するテレビ番組が放送され、まるでアミューズメントパークのような風呂施設が若者の間でブームになるなど、やはり日本人は無類の風呂好きなのだろう。そして、そんな日本人が築いてきた独特の文化が銭湯である。

 銭湯のシーンは、時代劇や落語にもよく出てくる。昔から、銭湯は庶民のコミュニティスポットであった。江戸の町における最初の銭湯は、1591年(天正19年)に江戸銭瓶橋(ぜにがめばし)という場所で開かれた「与七風呂」だと伝えられている。当時の風呂は浴槽に膝を浸すぐらいの湯しか入っておらず、そこへ下半身を沈めて上半身は湯気で蒸すという“蒸し風呂”スタイルであった。そのため、湯気をなるべく浴室外へもらさないよう浴室の出入り口に引き違いの戸をつけたり、湯を冷まさないように湯船の前を天井から板戸で深く覆うなどの工夫をしていた。その板戸口は人の背丈より低かったので、お客は身をかがめて中へ入らなければならなかった。そこは通称「ざくろ口」と呼ばれていたが、その由来は当時ざくろの実に含まれている酢の成分が鏡を磨くのに使用されていたからである。つまり“鏡”と“かがみ入る(かがんで入る)”をかけたという、昔の人らしい粋な言葉遊びだったのだ。また、湯船は「ざくろ口」の下からわずかな光しか入らず、殆ど暗闇であったようだ。しかも男女混浴だったために、風紀を心配した幕府が厳禁の令を出したこともあったという。

 1600年代初頭(慶長時代末頃)になると、今のようにたっぷりと湯が入った湯船が登場。首まで湯に浸かれる気持ち良さを味わうことができるようになった。そして、1800年代(天保時代)になると、銭湯の2階は一般的にお茶を楽しんだり、将棋をさしたりできるサロンコーナーとなり、町の人々の憩いの場として活用されていたのである。やがて時代は明治となり、少しずつ自家風呂も普及してきたが銭湯はあいかわらず繁盛していた。しかし、その後、戦争で多くの銭湯が廃業。東京では、終戦直後に銭湯の数がかなり減っていたが、人口増加とともに再び増え続け、高度成長期時代には総数も全盛期を迎えた。

 現在は自家風呂もほとんど普及し、東京の銭湯は全盛期の約半分となってしまったという。そんな流れの中、銭湯のイメージも様変わりしている。例えば、昔は男女ののれんをくぐってから番台で料金を払ったが、今は料金を先に払ってから男女別れて入るフロントシステムのところが多くなった。脱衣所では脱衣カゴが消え、鍵付きロッカーが主流となっている。浴室内もシャワーの数が増え、浴槽は小分けにしてジェットバスや電気風呂、露天風呂など設備を充実させたところが増えている。こうした銭湯もそれなりに楽しめるが、やはり、番台や脱衣カゴ、高い木の天井、大きな体重計に大きな浴槽、お馴染みの富士山の画といった昔ながらの銭湯も味わい深い。ちなみに大人の入浴料は、昭和45年は38円、昭和63年は280円、そして今は400円。この値段からしても、現代の銭湯は日常の中でちょっとした贅沢を感じることのできる特別な場所となっているのかもしれない。

 
 
 
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