相撲取りはなぜ髷を結うのか
今年の秋場所では、新入幕ながら優勝争いに名乗りを上げたモンゴル出身の力士、逸ノ城の快進撃が話題をさらった。ざんぎり頭の逸ノ城が横綱に挑んでいく姿は野性味満点で迫力があった。十両以上の関取になると「大銀杏」という髷を結うしきたりだが、逸ノ城の場合は出世が早すぎて、まだ髷を結うことができない。ここで、素朴な疑問がわいてきた。相撲取りはなぜ髷を結うのだろうか。 現代の大相撲のもとになった勧進相撲が盛んになったのは江戸時代。このころは武士も町人も丁髷(ちょんまげ)を結っていた。それがそのまま現代に受け継がれたということになるのだが、明治維新の断髪令で丁髷は姿を消してしまったはずだ。相撲の世界だけで生き残ってきたのはなぜだろうか。
 
丁髷は日本の伝統的な髪型
戦国時代の武将は兜をかぶったときに頭が蒸れないよう、また、前髪が落ちてこないように頭頂部を剃っていた。これを月代(さかやき)という。江戸時代に入ると束ねた髪を前に寝かせた髷が流行し、剃り上げた頭頂部を飾るようになった。これがいわゆる丁髷といわれるものだが、さまざまなかたちが生み出され、日本独自の髷文化が発展していった。 そんな中から髷の先端を銀杏のように開いた「銀杏」という髪型が生まれ、やがてそれが後ろから見ても銀杏が開いたかたちに見えるくらい大きくなり、これが「大銀杏」という髷になった。「大銀杏」は相撲取りの体格の美しさにとてもよく釣り合っていた。この時代の錦絵を見ると、有名な雷電も小野川も「大銀杏」を結っていたことがわかる。それが現代のような総髪の「大銀杏」に変わってくるのだが、いまでも髷の座りをよくするために頭頂部の髪を剃っている力士も多いという。
 
明治維新の断髪令でも生き残る

さて、時代は明治維新となるのだが、この丁髷は日本に来た外国人からはとても不評だった。「日本人は豚の尻尾を頭に載せている」とか、「ピストルを載せている」などと嘲笑われることもあった。そこで明治政府は、外国人と対等のつきあいをするにはまず髪型からだと考え、断髪を奨励した。しかし、なぜか相撲取りだけは髷を結い続けることを許された。相撲好きだった伊藤博文などの働きかけも大きかったという。明治42年には、関取は「大銀杏」でなければならないという決まりもつくられている。実はこの明治42年は、新設された大相撲の常設会場が国技館と命名された年でもある。それまで日本では国技という言葉はほとんど使われていなかったが、この国技館ができたことで、相撲は日本の国技というイメージが一般に広がっていくことになる。国技となれば、日本の伝統に根ざしたものでなくてはならない、ということで髷は堂々と伝承されたのである。このときに行司の衣装も、江戸時代の裃・袴から、より神事的で威厳のある烏帽子・直垂に変わっている。
500年近く続いた髷の文化を、歌舞伎や時代劇というのでなく日常的にリアルに継承しているのはおそらく相撲界だけだろう。相撲取りは土俵を離れても髷のある生活をしている。そして、その文化を外国人力士たちも担ってくれている。11月9日から今年最後の大相撲、九州場所がはじまる。 「大銀杏」はまだ無理かもしれないが、髷を結った逸ノ城を見ることはできるかもしれない。

 
 
 
 
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