新春、新成人の腕だめし
京都・東山七条にある三十三間堂。ずらりと並ぶ1001体の観音像が有名であるが、ここでは毎年、成人の日近くなると「通し矢」が催され、京都の初春の風物詩となっている。
現在行われている通し矢は「大的(おおまと)大会」と呼ばれる競技大会で、本堂西側の境内で約60mはなれた的を目指して弓を射る。参加者は開催年度に成人を迎え、かつ弓道の初段以上を持つ者となっている。毎年、全国から2000人近く集まるという。制限時間2分で2本を射て、2本とも的に当たれば予選通過、決勝は外した者が脱落していき、最後まで的中した選手が優勝となる。
特に大会の華となるのが成人女子の部。女性は晴れ着姿で競技に挑み、その姿は凛として華麗。正月ならではの華やかさが毎年ニュースを賑わしている。
 
天下一をめざした射手の挑戦
通し矢の歴史は古く、始まりがいつ頃かははっきりしないが天正年間(1573〜1592年)には行われていたという。当時の通し矢は境内で行うのではなく、軒下で行うもので、斜め上に向けて矢を射ると庇に当たってしまう。そこでかなりの強さで、ほぼ直線的に矢を飛ばす必要があり、座った状態で矢が射られた。距離は現在の2倍となる120m、南端から北端へ33もの柱を通過することから「通し矢」と呼ばれるようになった。

通し矢は江戸時代になると、大流行する。
諸藩から弓の名人が集まり、24時間内に何本の矢を的中できるかを競い合った。照明のない時代に120mという長距離を、まる1日継続して射るという、なんとも過酷な競技である。相当の体力が必要とされたことであろう。
徳川家康は最高の成績を残した者に「天下一」を名のる事を認め、さらに褒美も与えたため、藩士は日ごろの鍛錬の成果を示す絶好の機会として、こぞって参加するようになった。あまりに過熱しすぎて、藩同士の間に争いが起こらないか幕府は心配したほどである。
 
矢継ぎ早の過酷なレース
多くの藩士が挑戦した「通し矢」。なかでも尾張藩と紀州藩の戦いは激しく、尾張の藩士が天下一をとれば、すかさず紀州の藩士が記録を塗り替えるという、攻防が繰り広げられた。
なかでも驚異的な成績を残したのが尾張の星野勘左衛門と紀州の和佐大八郎である。星野勘左衛門は寛文9(1669)年に8,000本を命中させ、前年の記録7,077本を大きく更新した。あまりに多い命中本数に、しばらく星野の記録が破られることはなかった。しかしこれを破ったのが和佐大八郎である。貞享3(1686)年に8,133本を命中させ、記録を塗り替えた。以降、和佐の記録は最高記録として破られていない。
両者の確率をみてみると、星野勘左衛門は10,542本の矢を射て8,000本当て、確率は75.9%である。一方、和佐大八郎は13,053本の矢を射て8,133本当て、確率は約62%となっている。命中本数は和佐が上であるが、的中確率は星野の方が勝っている。
制限時間24時間のうち休憩等をどれくらいとったのかは定かでないが、だいたい6秒に1本のペースで矢を放っていたようだ。このことから、「矢継ぎ早」という言葉は、通し矢で次々と矢を射ったことが由来と言われている。
その後、時代の移り変わりによって挑戦者はしだいに減り、通し矢は行われなくなった。

現在、新成人によって行われている通し矢は300年前のものとは様相が異なるが、それでも、名残を楽しむことはできる。
その際に、三十三間堂に残されている300年前の通し矢の痕跡を見つけてみるのも一興かもしれない。柱や壁には矢による傷が多くあり、庇には外れた矢が刺さって今も残っている。特に西側の柱は片面が鉄板で覆われており、これは大量の射損じた矢が当たるため、補強として徳川家光が作らせたものである。300年前の射手たちの、過酷な戦いの息づかいが感じられるかもしれない。
 
 
 
copyright (C) kobelco all rights reserved.