最後はやっぱり神頼み
受験シーズンまっただなか。この時期、縁起の良いネーミングのお菓子がつぎつぎと発売されるなど、合格祈願商品が飛ぶように売れているという。昔も今も、最後はやはり神様が頼りなのである。
受験生が頼りにする学問の神様といえば、菅原道真が有名だ。近ごろでは遠方の受験生のために FAX で学業祈願を受け付け、お札やお守を送付してくれる神社もあるという。なんとやさしい神様であろうか。しかし北野天満宮(京都)や太宰府天満宮(福岡)、湯島天神(東京)をはじめとして、菅原道真を祀った神社は意外と多い。その数、なんと全国に 1 万社以上というから驚きだ。遠方を頼りにしなくとも、学問の神様はけっこう身近な存在なのである。
菅原道真は非常に頭が良かったと聞くが、そもそも人である道真が、どうして神様となったのだろうか。
 
秀でた才能から悲運の最期へ
道真は承和 12 ( 845 )年に、菅原家の三男として京都に生まれた。菅原家は三代にわたり、学者としては最高の栄誉である文章博士(もんじょうはかせ)として朝廷に仕えるほどの学者の家系である。このような環境に育った道真は 5 歳で和歌を詠み、 11 歳にして漢詩をつくるなどの才能を発揮し、周囲を驚かせたという。そして 33 歳には、当時としては異例の若さで文章博士に任じられた。
このような才覚は宇多天皇に重用され、道真はめざましい出世をとげる。 55 歳には、学者としては異例の右大臣にまで昇りつめ、左大臣である藤原時平とともに国政に携わった。しかしこのような大出世は、藤原氏のねたみをかい、九州太宰府へ左遷となる。以降、道真は心身ともに衰弱し、太宰府で生涯を閉じることになる。
 
恐ろしい怨霊から学問の神様へ
道真の死後、疫病が流行したり、日照が続いたり、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死し、これらはすべて道真の祟りと恐れられるようになった。とくに清涼殿が落雷をうけて多数の死傷者が出た事件から、道真の怨霊は雷神と結び付けられた。そして祟りを恐れた朝廷は、火雷天神が祀られていた京都の北野に、北野天満宮を建立し、怒りを鎮めようとした。また、道真が亡くなった太宰府にも太宰府天満宮が建立された。 恐ろしい怨霊として祀られた道真であるが、しだいに怨霊とは捉えられなくなり、江戸時代には生前優れた学者であったことから、いつのまにか学問の神へと変貌を遂げることになる。
さらに、もともと各地には火雷天神が祀られていたが、天神が道真と同一視されたことから、各地に祀られていた天神もこれまた道真であると考えられるようになった。そして天神(道真)を祀る天満宮、天満神社、北野神社、菅原神社などは全国に多数存在するようになったのである。 もともと日本では、神と自然と人間は隔てなく捉えられてきたため、人物が神になるケースもある。菅原道真を恐ろしい祟神とし、そして学問の神様へ変えてしまう日本人の大らかさ。そんな変化を受け入れてくれる寛容な神様。「天神さん」と親しみを込めて呼ばれる神様は、なんとも日本らしい神様なのである。
 
 
 
copyright (C) kobelco all rights reserved.