株式会社神戸製鋼所アルミ・銅製品販売網機関紙

 
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東京駅には多くの銅板が使われていた。銅は加工しやすく腐食しにくいことから、銅板として、屋根材(スレートのつなぎ材)や窓枠、尖塔、軒蛇腹などに葺かれていた。「土木学会誌(1915年発行)」に掲載された「東京停車場建築工事報告」によると、その量4,273坪というから約14,000㎡の銅板が使われていたことになる。東京ドームのグランドほどの大きさである。これは違う資料からだが、総使用量は150トンに達していたという。この種の文化財建築の工事としては異例の量だった。ちなみに銅の工事だけでも延べ12,000人以上が動員された。
それほどの大量の銅が使われた大工事だったが、今回解体してみてわかったことは、辰野金吾が建築した時代の銅はほとんど残っておらず、ほぼ100%が戦後の修復のときに新しい銅に葺き替えられていたということである。しかし、ほんの一部であるが大正時代の銅がそのまま残されていた場所もあった。今回の復原工事を担当された鹿島建設の工事担当者の方に伺ったお話では、正面壁面の2箇所に大正時代の工事のものが残されていたという(写真参照)。そのほかは、空襲によって焼失したり、残っていてもはぜが弱くなっていたりして使いものにならず、昭和の修復ではほとんどが新しい銅板に葺き替えられていた。戦後の物不足の時期での修復である。今回の解体で、資材の調達にあたっては当時の技術者の方たちがいかに苦労されたか、改めて知ることができたという。鉄骨に至っては相当の量が使い回しされており、それも今回の解体で明らかになったという。
 
唯一残されていた銅板の部分
 
 丸い窓の銅板飾りの復原。
復原にあたっては技術の検証・伝承ということを重視して、極力当時の工法を取り入れながら行なった。しかし、現存しているものはいいが、戦災で焼失してしまったものについては、一から製作しなければならなかった。たとえば南北ドームにあった丸い窓の銅板飾であるが、これは当時の設計図や残された写真を見ながら製作するしかなかった。もちろん、当時の工法で製作することは前提だったが、辰野金吾の時代には溶接の技術がなく、銅板の接合にはロウ付けという方法がとられていた。この方法だと明らかに防水、強度上の問題が生じる恐れがあった。そこで、将来の瑕疵が予測されるものについては現代の方法をとることにした。明治・大正時代の技術の上に、昭和・平成の技術が結集され、東京駅は未来に継承されていくのだ。  


南北ドームの銅板飾り
 
 
 
 緑青を吹かせないことについて。
 
ほぼ復原工事を終えつつある東京駅を見て大きく変わったと思うのは、南北ドームの形状もさることながら、あかね色に光り輝く銅の色合いである。緑青が吹いていないせいか、イメージがずいぶんと変わって見える。最近の復原の考え方として、古色感をだすために銅に人工的に緑青を吹かせることもあるという。たとえば、明治神宮がそうだった。今回の復原にあたっても議論されたというが、緑青色でないと必ずしもイメージとして合わないわけではなく、人工的に緑青を吹かせることはやめ、自然に緑青がつくのに任せることにしたという。私たちも、それまでゆっくりと待つことにしよう。  
緑青が吹いていた銅板葺き


銅板葺き工事風景
 
 
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