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辰野金吾は日本における近代建築の草分け的な人物で、下級藩士の次男として生まれながら工部省工学寮(現東大工学部)に第1回生として入学。鹿鳴館の設計者として知られるジョサイア・コンドルに学び、後に日本銀行本店や旧両国国技館をはじめとする日本近代建築史上重要な作品を手がけているが、代表作はなんと言っても東京駅であろう。今年10月には復原工事も完了し、辰野金吾が設計した1914年当時の東京駅をもう一度見ることができる。もう一度、と言ったのは、辰野金吾が設計した東京駅は、戦災により南北のドームと屋根・内装を焼失。戦後私たちが見てきた東京駅は終戦直後の建築技師たちが応急処置的に修復したものだったからだ。戦後67年を経て、辰野金吾の東京駅がよみがえる。  
辰野金吾
(1854年−1919年)
 
 
 東京駅はフランツ・バルツァーの設計案をもとにつくられた。
 
その東京駅も最初から辰野金吾が設計を任されていたわけではない。鉄道建築に関して遅れをとっていた日本は、西洋から技術を学ぶべく多くのお雇い外国人を招聘していた。すでに東京駅の設計は逓信省工務顧問のドイツ人技師、フランツ・バルツァーがすすめていたが、彼が提出した、西洋風レンガ建築の上に瓦葺きの屋根を乗せ、出入り口には唐破風を乗せるといった和洋折衷の設計案はあまり評判が良くなかった。結局、「ステーションごときは、外国式がよい」と言う明治天皇の意向もありバルツァー案は立ち消えになってしまう。そこで、代役として白羽の矢が立ったのが辰野金吾だったというわけだ。1903年のことである。このとき辰野金吾は帝国大学工科大学学長を辞し、個人の設計事務所を開設したばかりだった。
設計は共同経営者の葛西萬司と行なったが、プラットホームの配置など、主要設備のレイアウト、つまり平面図に関しては、ほぼバルツァーの設計案を踏襲することにした。設計に与えられた時間が少なかったこともあるが、そこには西洋のすすんだ鉄道駅建築の叡智がたくさん詰め込まれていた。しかし立面のデザインに関しては和風を排し、最初の師であるジョサイア・コンドルから学んだゴチック様式を基調とした西洋風建築に変更した。当初は予算も少なく1階部分と2階部分だったが、1905年に日本が日露戦争で勝利をおさめると状況は一転。鉄道院総裁後藤新平の一声で、予算は一気に7倍に跳ね上がり、1階部分が2階になり2階部分が3階になり、デザインも大幅に変更されることになった。辰野金吾の設計に時間がかかったのはこんな理由があったのかもしれない。辰野金吾が設計図のすべてを鉄道院に出し終えたのは1910年、工事が開始されてからすでに3年近が経っていた。


図版・バルツァーの描いた中央停車場の和洋折衷の案

図版・辰野金吾事務所の作成した設計図(最終案に近いもの)
 
 100年近く間風雪に耐えてきた東京駅。
 
東京駅が完成して10年ほど後に関東大震災が発生し、東京では多くの建物が被害を受けたが、東京駅はほとんど被害を受けなかった。東京駅に限られたことではないが、辰野金吾の設計する建物はみな重厚で堅牢だった。そんなことから当時の人は辰野金吾のことを辰野堅固と言った。東京駅はそれほど堅牢だった。だから太平洋戦争で焼夷弾の直撃を受けても、全壊を免れることができたのだ。
 
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